ラマン分光法とは
ラマン分光法とは、ラマン散乱光を用いて物質の評価を行う分光法です。光を物質に照射すると、光が物質と相互作用することで入射光と異なる波長を持つラマン散乱光と呼ばれる光がでてきます(図1)。その波長差は、物質が持つ分子振動のエネルギー分に相当するため、分子構造の異なる物質間で、異なる波長を持ったラマン散乱光が得られます。それに加え、ラマン散乱光を用いて、応力、温度、電気特性、配向・結晶性などの様々な物性を調べることができます。 ピーク位置からは化学結合の情報、スペクトル全体の波形から分子構造の情報や結晶構造の違い、ピーク半値幅からは結晶性の違い、ピーク位置のシフトから応力や歪みなど、様々な情報が得られます。 ラマン分光装置は、光源、分光器、検出器から構成されます。得られる信号は横軸を波長(波数)、縦軸を強度とするラマンスペクトルです。図2に示すラマンスペクトルはある波長域に各分子振動由来のピークを持っていることを示しています。ラマンスペクトルは、波長の逆数をとった波数 [cm⁻ ¹] という単位で表示するのが一般的で、励起波長からの波数シフト量で示されます。ピークの半値幅で結晶性、ピークシフト量で応力などの物性評価を行うことができます。
ラマン散乱
光が物質に入射して分子と衝突するとその一部は散乱されます。 大部分は入射光と同じ波長のレイリー散乱と呼ばれるものですが、ごくわずかに波長の異なる光が含まれ、それをラマン散乱光と言います。 ラマン散乱光には分子のさまざまな情報が含まれています。 ラマン散乱光は、入射光より波長が長いストークス散乱光と入射光より波長が短いアンチストークス散乱光に分けられます。一般的には強度の大きいストークス散乱光を解析に用います。これらの散乱光を回折格子を用いて分光し、ラマンスペクトルを得ることができます。
励起レーザ波長とラマンシフトの関係
ラマンスペクトルとIRスペクトルは何れも横軸は波長の逆数である波数表示で示されますが、実際に測定している波長領域に特徴的な違いがあります。 図3にラマン分光・赤外分光の0~4000cm⁻¹のスペクトルについて、横軸を波長で表示した図を示します。 FTIRなどの赤外分光ではに2500~25000nm(2.5μm~25μm)の一定の赤外領域を測定しています。 これに対して、ラマン分光では目的に合わせて様々なレーザ波長が使われているため、これに対応して分光する波長領域が異なります。 514.5nmのアルゴンレーザで励起する場合は、ストークス散乱のスペクトルは514nm~648nmの範囲で観測されます。 一方、1064nmのYAGレーザで励起した場合は、1064nmより長い近赤外領域にスペクトルが展開します。 励起レーザー波長選択の目的としては、蛍光干渉の回避、共鳴ラマンによる高感度測定、試料への侵入長コントロールなどが挙げられます。
ラマンスペクトル
カーボンナノチューブや、グラフェンが強くラマン散乱光を出すのは、各分子構造の基礎である六員環構造の対称性が良く、かつラマン共鳴効果が得られるためです(図4)。 また、C=C結合やS-H結合なども対称性を持っているので、たんぱく質をはじめとした生体分子でもラマンスペクトルを取得することが可能です。
ラマン分光装置に求められる性能は、波数をどれくらい正確に調べることができるか(波数分解能)と、どの程度の感度でスペクトルを検出できるか(スペクトル感度)の2点です。 波数分解能は、分光器の持つ焦点距離の長さとグレーティングの刻線数(1ミリあたりに刻まれた線数)、スリット幅によって決まります。スペクトル感度は、試料からのラマン散乱光を集める対物レンズの開口数や検出器のショット雑音(光子の量子性ゆらぎ由来の雑音)、暗電流を含む熱雑音で決まります。
ラマンスペクトルから得られる情報
エタノールとメタノールのラマンスペクトル
ラマンスペクトルから得られる情報の一例として、構造が類似しているメタノールとエタノールのスペクトル比較を図5に示します。 上段の赤色のスペクトルがC₂H₅OHで構成されるエタノール、下段の青色のスペクトルがCH₃OHで構成されるメタノールです。 ラマンスペクトルは、横軸を励起波長からの波長シフト量(Raman shift(cm⁻¹)) 、縦軸は散乱光の強度で表されます。 化学結合ごとに特定のラマンシフトにピークが検出されるため、分子構造の推定が可能です。 エタノールとメタノールのスペクトルを比較するとCC結合の有無などから区別することができます。 このように、分子構造の違いがピークのパターンとして現れるのがラマンスペクトルの特徴です。
ラマンイメージング
ラマン顕微分光手法の走査系は、共焦点ラマンイメージング 、ライン照明ラマンイメージング、広帯域照明ラマンイメージングの3つに大別されます。測定試料の性質に合わせて、走査系を変更して、 試料が持つ分子構造や物性の空間分布を取得します。
共焦点ラマンイメージング
共焦点ラマンイメージング光学系は試料のある1点に対応する共焦点位置にピンホールを設けることで、その1点からの散乱光を効率よく検出する光学系です。画像化を行う際は、試料をステージスキャンにより動かし各点からの信号を取得するか、ガルバノミラー等を用いて焦点位置を走査させ試料上の各点からの信号を取得する方法をとります。 共焦点ラマンイメージング光学系の特徴は、空間分解能です。共焦点光学系の空間分解は、対物レンズの開口数(N.A.)、波長、共焦点上に設けたピンホールサイズによって決まります。対物レンズのN.A.と波長によって決まる空間分解能をレイリー(Rayleigh)により定義し、試料上の二つの輝点を分解する二点間の距離を言います。ピンホールのサイズを小さくすることで、さらに空間分解能を上げることができます。 しかし、ピンホールのサイズを小さくしすぎると、回折現象の影響を受け、検出器に結像された光がサイドローブを持ってしまいます。 そこで、サイドローブを避けるために、ピンホールのサイズを適正化させる必要があります。ピンホールのサイズを適正化するためには、エアリーディスクの直径サイズを基準に行うのが一般的です。
共焦点技術の特徴は、Z方向測定が可能なことです。この特徴を利用し、観察試料を立体的にとらえる3次元イメージングが可能です。 HORIBAが提供するラマン用ソフトウェアプラットフォームLabSpec 6の機能により、直観的な操作で簡単に3次元イメージングを行うことが可能です。 試料を立体的に捉えることで、試料に発現する物性の要因解明などに役立てられています。
ライン照明ラマンイメージング
ラマン分光で用いられる検出器は2次元の検出面を持っていることが一般的です。 ライン照明では、“行列“状に並んだ各素子の、行を波長、列を試料上の空間分布に対応した並びとして使用します。このように、2次元検出器全面を利用するのがライン照明ラマンイメージングです。 この手法は、試料へのダメージを抑えることができる一方で、共焦点ホールでなくスリットを通すため、Z方向の分解能が悪くなります。
広域照明ラマンイメージング(Widefield Global Imaging)
共焦点ラマンイメージングやライン照明ラマンイメージングは、光を試料上で走査させる必要があるため、画像取得に時間がかかります。 試料全体をワンショットで照射できれば、画像取得時間を大幅に短縮することができます。この全体照明手法を利用したラマン顕微分光法を広域照明ラマンイメージングといいます。 試料上を全体的に照らすことで得られる各点からのラマン散乱光は、2次元検出器の各素子上に結像されます。 この手法では、分光させた光すべてを検出面に結像させることができないため、音響光学可変波長フィルター(AOTF)やチューナブルバンドパスフィルターを検出器前に配置し、検出する光の波長を掃引し分光像を取得します。 この手法では、ワンショットでの撮像により画像取得時間の短縮化が図れる一方で、試料断面方向の空間分解能が大きく悪くなることが問題となっています。
ラマンイメージングの最新動向(TERS / SRS)
ラマンイメージング法を発展させる方向は二つあり、高空間分解能イメージングと高速イメージングです。 高空間分解能イメージングを得る技術の代表的な例は、先端増強場を利用したチップ増強ラマン (TERS: Tip-Enhanced Raman Scattering) 顕微分光法です。
高速イメージングの代表的な例は、ラマンの非線形現象を利用したCoherent Anti-Stokes Raman Spectroscopy(CARS)や誘導ラマン現象を利用したStimulated Raman Spectroscopy (SRS)と検出器の伝送時間ロスを低減した高速撮像技術です。非線形現象で最近注目を集めているのは、SRSです。これは、高い分子識別能と高感度を併せ持った次世代のラマン顕微分光技術ともいえます。 SRSは、ビデオレートで生体組織を迅速にとらえることが可能な技術として期待されています。
HORIBAで提供している高速撮像技術のソフトウェアをSwiftといいます。 Swiftは、一点あたりの露光時間が1 msec以下の条件で、高速で高感度なラマンイメージングが可能な高速撮像技術です。 高精細なイメージを短時間で取得することが可能です。 さまざまな物理現象や光学技術を利用することで、ラマン顕微分光法の超解像化と高速化が進み、ナノオーダーの空間分解能で、観察試料の挙動を捉える、他の分析方法では提供できない情報を得られる手法へと発展する可能性に期待しています。
KHD分散式
観察することができる分子は、対称性が高い部分的な構造をもつ分子です。これは、KHD ( Kramers-Heisenberg-Dirac )の分散式といわれる、ラマン散乱強度方程式内の変数を定義する方程式によって知ることができます。 下記に、KHD分散式より得られたラマン散乱テンソルを示します。
ここで、gを始状態、e’を中間状態、vを終状態とし、ラマンの散乱過程に関わる状態を表しています。RρとRσはそれぞれρ方向に偏光した入射光により誘起される双極子モーメントとσ方向に偏光した散乱光子を放出する際に生じる双極子モーメントを表しています。方程式内の第一項の状態遷移は入射光子1個の消滅、第二項の状態遷移は散乱光子1個の生成を表しており、図11に示すように、入射光が試料に入りラマン散乱光が放出されるラマン散乱の過程を表します。 各項分母のhνe’, hνg, hνv, hνoはそれぞれ、中間状態エネルギー、基底状態のエネルギー、励起振動エネルギー、入射光のエネルギーに相当し、共鳴効果を議論する際に役立ちます。
KHD分散式を用いることで、対称性を持った化学構造を有する分子のラマン散乱光が得られることがわかります。各項の分子に相当する状態遷移の項は、分子に電場を加えることで生じる双極子モーメントの対称性と分子の対称性の積として扱うことができます。その積の値が全対称性を持つ時にのみラマンテンソルが有限値を持ちます。つまり、部分対称性を持つ分子のみから、ラマン散乱光が発生することになります。 図12に、水分子の分子構造を記しました。水分子は、回転対称、鏡映など対称操作により不変な構造であるので、部分対称性を持つことになります。ラマン散乱光は、ラマンテンソルの2乗と入射光の振動数の4乗に比例しているので、対称性と入射光の波長により強度が決まります(図13)。
HORIBAは、「Your Partner in Science」をテーマにオンラインセミナーで、各種分析の基礎やノウハウを紹介しています。皆様からのご視聴お申込みを心よりお待ち申し上げております。
粒子計測、蛍光X線分析、元素分析、分光分析、ラマン分光分析、蛍光分光分析、表面分析の基礎やノウハウを紹介したセミナー(アーカイブ動画)の一覧です。